焼き場に立つ少年

誕生日のニュースの中の一枚の写真に衝撃を受けて涙が止まらなかった。私の誕生日は長崎の原爆祈念日である。

『焼き場に立つ少年』

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原爆投下後の長崎でジョー オダネルというアメリカの従軍カメラマンの方が撮られた写真で、「幼子の亡骸を火葬にする順番を、歯を食いしばって待つ様子をとらえた」・・とある。またオダネルさんはこう記している。

「(弟の火葬にされる)炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいる」「少年があまりにきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました」

一枚の写真にこれほどの力があるということを初めて知った。

これほど涙が止まらないのは、悲しみ・・というより、また原爆や戦争に対して・・という以上に、人間の存在の悲しみ・・というか、すごく深いところで魂に働きかけてくる、ほんとうに魂が揺さぶられるものがあるからだろう。あまりにも衝撃を受けて、誕生日の夜は寝ることができなかった。

 

ずいぶんと以前、宮沢賢治の「ひかりの素足」という話を読んだとき、あの時も体がガタガタ震え、声をあげて大声で泣いたことがあり、この写真を見たときと同じような経験をした。

峠を越えようとする幼い兄弟が吹雪に遭い、弟の方が亡くなってしまう話で、この少年の場合と似ているところがあるが、このお話では、光りかがやく足の地蔵菩薩が子供を救ってくれる。宮沢賢治のこの話には、あまりにも残酷なこと、そしてそれに対するほんとうの救いが書いてあった。

 

若い頃、アメリカを放浪していたとき、サンフランシスコにおられた花岡先生のお世話になった。教会の牧師をしておられた先生のところへ、アメリカへの入国時、各地を回って帰ってきたとき、そして帰国時などに家に寄っては、支えていただいた。いつだったかあるとき、ショパンの「別れの曲」を知っていますかと問われたが、当時はそれまで聞いたこともなかった。LPレコードを聴かせてもらったがすごく綺麗な曲だった。先生は、「以前はこの曲を聴くたびに涙が出て止まらなかったのです・・ある日、日本に帰った折、兄に偶然そのことを話すと、それは母の葬式の時に繰り返し繰り返しその曲が流れていたからだよ・・」と教えてもらったそうだ。先生は三歳の時にお母さんを亡くしておられる。

去年、再度アメリカを訪れた折に、先生のところへ若い頃のお礼を言いに行こうと、先生の住所なり教会なりを調べて見たが、本当に残念なことに先生は亡くなっておられた。ただ、その時に先生の生い立ちのようなものが書いてあるものが目に止まって・・

先生は母親ばかりか、お父さんや、お兄さんと言われていた兄弟もその後全て亡くしておられた。神奈川で生まれ育たれたとばかり勝手に思い込んでいたが、おそらく先生は長崎で生まれられている・・。そしてご家族は皆、即時ではないが、原爆のために亡くなっておられることがわかってきた。おそらく原爆投下時に先生は一、二歳だったかと思う。先生は牧師の家に生まれられたのだとばかりおもいこんでいたが、お母さんやお父さんを亡くされた後、どのようにして牧師になり、しかもアメリカへ行かれたのか?いつか墓参りに行きたいと思っている。

あの時以来、今まで、せいいっぱい生きてきたつもりではある。ただ、この少年の写真を見ると、生きる上でほんとうに大切なものを思い起こさせてくれる。 なんのために生を受けてきたのか、残りの人生を大切に生きねばと思う。花岡先生はほんとうにせいいっぱい生きぬかれたと改めて思う。